自分の限界点に立つ
芸大では誰も彼もみんな朝から晩までがむしゃらに練習しまくっていて、お互い良きライバルであり、兄弟の様に仲が良かったのです。私も居心地良く、思う存分練習しまくり、毎日がとても充実していました。 ここでも私は生涯の師である中川昌三氏、パウル・マイゼン氏との素晴らしい出会いに恵まれます。演奏技術にコンプレックスを持ち続けていた私も、両氏の教えを受けてやっと基礎工事にメドが立ち、学生生活の集大成となった訳です。 所変われば品変わる、と言いますが、 芸大には自己主張の強い人間が集まっていたので、 私などかすんでしまう位で、今度は「もっと自己主張を強く」と言われるようになります。元来、鬱屈した目立ちたがり屋なだけあって、素直に思いきり自分を出すという事ができません。自分を押し殺すことに慣れてしまった私に最後の課題となって残ったのは「精神の解放」でした。 私にはコンクールでの入賞経験がありません。コンクールと言えば自己主張合戦そのものです。私も一応頑張っていたのですが、何だかしっくり行きません。もともと競争が苦手という事もあったのですが、どうもあからさまに「自己主張」をするのは性に合わず、楽器も、演奏も、なんか地味でした。こればかりは、練習でどうこうなるものでもありません。行く先々で、問題となる事はいつも同じでした。 数々のコンクールに挑戦しては敗れ、反省して頑張ってもやっぱり敗れ、という事をいたずらに繰り返し、すっかり行き詰まってしまった感がありました。でも、演奏のスタイルについては、変えようと思っても変わりませんでした。そして仲間たちに先を越されるたびに「自分はソリスト向きではないが、オーケストラには向いているんだ・・」という考えに救いを求めていました。 ちょうどその頃、いくつものオーケストラに就職のチャンスがあったのですが、それらのオーディションでも結局自分らしさを発揮することはできませんでした。人生にとって重要と思われる場面での「失敗」をくり返すうちに、いつの間にか演奏することが「恐怖」に変わって行きました。 若い後輩たちが次々と名誉あるポストを勝ち得て羽ばたいてゆく中、どうして自分だけは飛べないのかと、嫉妬と絶望で夜も眠れない程、苦しんでいました。 それでも「出世」を諦めきれない私は、かねてから念願であったアメリカ留学に望みをつなぐのです。散々、学生生活を満喫したのにまだ学校へ行こうだなんて、実にナンセンスでした。しかし私にはどうしても師事したい先生がいました。神戸国際コンクールで出会ったジーン・バックストレッサー先生です。私はバックストレッサー先生とお話したとたん、涙が溢れてとまらなくなりました。これほど感動的な人に出会ったことはありません。かくして今度は、アメリカ留学に向けての確執が始まったのです。 ◆気づいた事「こんなに頑張れて、なんて恵まれてるんだろう。」